【暗い時代】”靴を投げた男”の抗議が「威力業務妨害」にすりかえられる時

 1年前、特定秘密保護法を強行採決した参議院本会議場で起きた事件を覚えていますか?
 民意を無視した採決に、傍聴席のAさんが議場に靴を投げ込んだ。
 靴は誰にも当たらなかった。Aさんは誰かにぶつけるつもりもなかったのだろう。
 騒然とした議場は与野党の揉み合いになっていた。誰かを狙えば、間違って成立阻止に動いた議員さん、例えば福島瑞穂さんとかに当たる危険性だってあった。そんな事になれば、真摯な抗議は一転してコミカルなお笑い種になる。そんなリスクを踏めようか?あれは主権在民の立場から強い抗議を示したジェスチャーに過ぎなかった。傍聴席からの抗議に、議場のほとんどの議員達が気付きもしなかった。議場の衆目は議長に集中していたからである。

 Aさんは直ぐに取り押さえられ、議場の外へ連れ出された。 
 その夜のうちに福島瑞穂さんの秘書が議会の警備に照会したところ、説教した後、家に帰したと回答があった。嘘よー!Aさんはその場で逮捕され、84日間長期勾留されていた!

 「2014年10月11日付 <国会・靴投げ裁判>「靴は審議を妨げていないから無罪」被告人の弁護士に主張を聞く」によれば、罪状は「「威力業務妨害(刑法第234条 )」で、起訴状には『同議場を一時騒然な状態に陥れ』、『議事の進行を阻害し』、『威力を用いて参議院の業務である会議を妨害した』とある。
 これは検察の作文でしかない、事実に相違する。議場の状況は、Aさんのアクションに今更影響を受ける余地の無いほど騒然としていたのである。私も含む、多くの国民があの夜の国会議事に注目してたんだぞ!それでも検察は捏造して押し切る気か!まるで、目に見えない治安維持法が検察の意識には存在するかのようだ!
 Aさんは火炎瓶を投げ込んだわけじゃない!投げ込んだのは靴だ!手榴弾じゃない。靴だ。
 議場に投げ込まれた靴は、何の”威力”も発揮しなかった。議事進行に些かの影響も無かった。
 
 支援サイトによれば、当初は大法廷で行われる予定だったが、突如、担当が安東章裁判官に差し替えられ、「警備法廷」で審理される事になった。ものものしい警備で威圧し、起訴状の捏造をそれらしく見せる演出効果を狙っているとしか思えない。”お上”に対する国民の言論を暴力的に封殺する意図が見える。
  
  *支援者グループの公式サイトが裁判資料をアップしています。
    リアルタイムの更新はされていないので、そこに注意して参照して下さい。
    ・国会内で逮捕された「秘密保護法と闘う男」(Aさん) を助け出そう!

 個人的には、靴を投げたりトマトをぶつけたりというパフォーマンスを私は好まないけれど、今回の検察、裁判所のやり方は好ましい好ましくないの次元を超えて、法律の恣意的運用であり容認出来ない。
 あの時、あの場に立ち合って、傍聴席がお行儀よくただ眺めているだけだったとしたら、それこそ不気味な国、不気味な国民ではないか!一人の傍聴者が抗議を公然と示した事実はむしろ安堵感を与えるものだ。事件の起きた夜も、デモ隊が国会を包囲し抗議行動を続け、成立後も廃案が求められている。放り込まれた靴は、議場の中にいる議員のほとんどが気に留めず、無視されて床にころがった。無視された民意の象徴とも言える。抗議は無視され、事件が検察によって恣意的に捻じ曲げられ、不当に重い処罰が下されるのなら、憲法に規定される立憲主義を脅かすものだ。
 ブレヒトの詩「後世へむけて」にあるように、『不正義だけがあって抵抗はなかったのさ』なんてことになったらお終いだ。『劣悪さを憎めば顔がゆがみ、不正に激怒すればしわがれ声になり』、不穏当ではあるが、靴やトマトをぶつける事もあろうじゃないの。抗議の意味以上に何も被害らしい被害は発生しなかった事件を、体制側は民意の馴致、弾圧をカモフラージュする為に利用しようとしている。

 体制側の事件対応は、「暗い時代」が、もう直ぐそこに、目に見える形で迫ってきている感覚を呼び覚ます。抗議する事に疲れたら、少し休もう。抗議する事に恐れを感じたら、せめて歌おう。沈黙に逃げ込んだ時も、暗い時代に点滅するかそけき明かりを見逃すまい。
 Get Up, Stand Up for your right♪(by Bob Marley)
 Get up, stand up, don't give up the fight♪
 

参照 : アンナ・ハーレント「Dark Times(暗い時代)」の序文から。 

暗い時代の人々序文(1968年1月)
 (前略)
 この言葉を私はブレヒトの有名な詩「後世へ向けて(an die Nachgeborenen, to posterity)」から借りている。
 詩に書かれているのは、混乱や飢餓、大量殺戮、不正義に対する抵抗、「ただ不正があって抵抗がなかったときの」絶望、正当ではあるが人を醜くさせてしまう憎しみ、まったく当然であるにもかかわらずその声をしわがれさせてしまう憤怒である。これらは果たして、すべて現実だったのであり、公然となされたのである。
 このことに関しては、隠されていることも不可思議なことも全くなかった。ただし、それは決して誰の目にも明らかだったのではないし、それを知るのはたやすいものではまったくなかった。カタストロフがすべてのもの、すべてのひとを襲ったまさにその瞬間に至るまで、それはリアリティによってではなく、ほぼすべての公的な代表者らの非常に効果的なおしゃべりと曖昧な物言いで覆い隠されていたのだ。
 彼らは遮られることなく様々に技巧を凝らして、不愉快な事実を言い繕い、ものごとを正当化した。暗い時代について、そしてそこで生き行動した人らについて考えるなら、「エスタブリッシュメント」―すなわち「システム」と呼ばれるところのもの―から発せられ広められる、このカモフラージュを考慮に入れなければならない。


 公的領域の機能が、自らが誰であるか、何ができるのかを、善かれ悪しかれ行動と言葉のうちに示す現れの空間(space of appearances)を与え、人間の事柄に光を投げかけることであるならば、暗闇が訪れるのはこの光が消しさられてしまったとき、「政治不信(credibility gap)」や「見えざる政府」によって、また事態を明らかにするのではなく絨毯の下に押し込んでしまう発話によって、古びた真理をもちだしてきて言い訳をして、あらゆる真相を意味のないどうでもよいことにしてしまう、道徳的なあるいはその他の忠告によって、光が消し去られてしまったときである。

 (中略)

 私がここでより広い意味で提起する「暗い時代」は、今世紀の、恐ろしいまでに新しい怪物性とそのまま同じだというわけではない。反対に、暗い時代は新しくないばかりではなく、また歴史のなかで珍しいものでもない。ひょっとすると、その他の点では昔も今も犯罪と悲惨さを同様に経験しているアメリカ史においては、知られていなかったことかもしれないが。
 時代の暗闇の中でさえ、わたしたちにはなんらかの照明を期待する権利があるということ、そしてそうした照明がやってくるのは理論や概念からではなく、むしろ不確かで揺らぎやすく、しばしば微弱な光、ある種の人々が自分の人生や作品のなかでどのような状況であっても燃え立たせ、この世で与えられた時間を超えて投げかける光からであるということ―この確信は、これらの人々の横顔を描く際に抱かれていた暗黙の背景をなしている。

 わたしたちのように暗闇に慣れすぎてしまった眼は、彼らが投げかける光がろうそくの炎なのか、それとも燃えたぎる太陽の光なのかを見分けることはできないだろう。しかし、そうした客観的な評価は私には大した重要性を持たないように思われるし、後世へ(to posterity)任せても問題のないことだろう。  



 さてさて、選挙結果は?
 今から気が滅入る(笑い)。
 真夜中にニュースを見て、即眠る。睡眠はリフレッシュの糧!
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