森炎著「死刑と正義」:価値不在、基準に基づく「司法判断」

 「『死刑と正義』著者・森炎インタビュー」を読んでいて、日本の社会的コンセンサスで、社会正義や価値観はどんなものがあるだろうと思いを巡らせた。
 人命ではない。人命尊重は、この国民にはない。他人の命には無関心なものである。
 イスラム国邦人人質事件で、「自己責任論」をふりかざしたのは政府筋ばかりではない。一定数の小市民が賛同していた。日本社会では犯罪被害者の遺族も社会の無関心や冷淡さに苦しむ。
 平和でもない。日本の稀有な戦後70年間の平和は、占領軍に与えられたもので、我々は享受してきたが、勝ち取った価値ではない。積極的に守り抜きたい価値には育たなかった。

 思いを巡らせると、この国には、国民には、守り抜きたい共通の価値観はないんじゃないかなぁ・・と思えてきた。見当たらないのである。
 2015年、シャルリ襲撃事件を受けて、1月11日に国民と国が一体となって大規模デモ行進を各地で実施した。テロの脅威に屈せず、「言論の自由」を守り抜くと、フランスは国内外に示したのである。シャルリの被害を、フランスの価値観を侵害する被害と受け止めた。シャルリは慢性的な赤字経営だったが、フランス社会は倒産の危機に大しては甚だ冷淡だった。シャルリの風刺の質や、雑誌そのものは評価されていなかった。デモに参加した大多数の市民は読んだこともなかったろう。
 フランスの1・11は、日本人にとっては異質なものだと思う。日本にはこれでやっていくんだと、積極的に肯定する社会的価値、この価値は譲れない、脅威に曝されても死守する価値を持っていないように思う。

 司法判断が 『(処罰の)根拠となる(守るべき)価値』を示せていないという、森氏の指摘は元裁判官ならで、私には新鮮味があるが、法曹界の人には当たり前の常識なのだろう。そう言われてみると、私達の市民生活も「基準ありきの、価値不在」かなと思う。日本社会は価値を死守する者を、コミュニティーの外に押し出す力が働く。
 国民の在りようが先か、「お上」の在りようが先か、どちらが「鶏と卵」かは私には分からないが、いつも、殺傷事件に対する刑罰が軽すぎると感じているので、森氏の次のような指摘にはちょっとびっくりした。

 『職業裁判官の死刑基準は、一般の人が抱きがちな正義や人間精神とは関係ありません。あくまで基準なのです。無色透明の中立的な基準です。語弊があるのを承知で言えば、点数計算みたいなもの』で、『(その理由は)、職業裁判官は非民主的な存在だからです。日本の職業裁判官は、アメリカの裁判官のように選挙の洗礼を受けているわけでもないし、国民に対して責任を負う立場でもありません。単に国家試験に受かったというだけです。だから、価値判断をすることは許されていません。たとえ正義の判断をしたくとも、できない存在だったのです。職業裁判官の価値的な判断は、暴走とみなされます。』

 正義不在の裁判所?
 『本書(森炎著「死刑と正義」)では、それらの著名事件によって象徴されるシーンを死刑空間と名づけ、それぞれの死刑空間を巡り、死刑を決める価値の所在を探っていきます。そこには、これまでの無色透明な「基準」とは違って、価値判断という色彩があります。その彩られた価値こそが、本書の考える死刑の正義です。』

 森氏によれば、現行の司法判断の現場で、『人命(殺された被害者の奪われた命)の価値は、何ら死刑を正当化する理由にはならない(中略)、人命は死刑の根拠にならない』。
 これでは犯罪被害者の遺族は納得しないなぁと思う。

 軽微な事件とはいえ、私が刑事、民事と裁判を経験して漠然と感じてきた違和感も、多分、この「価値不在、基準ありき」の審理の進み方に由来するのかもしれない。
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