朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ連載中

本田雅和記者の連載です♪
以下、転載。


No.1293
1 被曝牛のエサ下さい

 「福島県浪江町から来ました。『希望の牧場』と言います。原発から14キロの所で300頭の被曝(ひばく)した牛を飼っているのですが……」
 4月の初旬、宮城県栗原市の栗駒山のふもとに広がる農村地帯。
 「希望の牧場」のボランティアスタッフ針谷勉(はりがやつとむ)(40)は、畜産農家や酪農家を一軒一軒、車でまわりながら頭を下げ続けた。
 「エサが足りません。積み上げてある牧草ロール、譲っていただけないでしょうか?」
 4年余り前の東京電力福島第一原発事故のあと、針谷らがエサ集めの行脚を始めて3年目になる。

 宮城県北部の栗原市は第一原発から150キロ近く離れている。原発事故直後に汚染された牧草はロールにされたまま、休耕田などに山積みに放置されていることが多い。
 農地を除染し牧畜を再開する農家にとって、汚染牧草は邪魔物だ。県や市は焼却処分も検討しているが、反対も根強く、計画は進まない。
 汚染牧草でもエサを与えねば「希望の牧場」の牛たちは餓死してしまうし、汚染度は国が一般廃棄物扱いを認めるレベルだ。

 「ちょうどいい。150玉ほどあるよ。早く持っていって」
 そう言ってもらえばありがたいが、うさん臭そうに「代表は何ていう人?」「汚染ロールだよ。あとで戻しに来たりしない?」など、根掘り葉掘り聞かれることも多い。
 牧場主の吉沢正巳(よしざわまさみ)(61)の名前や、牛飼いとして殺せずに飼い続けていることを伝え、説得する。
 農家3軒に1軒ぐらいは納得し、協力してくれる。

 交渉が成立すると、同じボランティアスタッフの木野村匡謙(きのむらまさかね)(43)に連絡。数日後には、14トンの大型トラックで木野村が常磐自動車道、東北自動車道を北上し、片道3時間がかりで引き取りに行くのだ。
 最初は運送会社に頼んでいたが、運賃が高くつく。昨年夏、牧場は福島県富岡町の元建設業者からこの中古トラックを借り受けた。運転する人が必要だと、木野村自身が大型自動車免許を取得した。
 運転席の木野村が笑う。「福島県内から始めて、もらえるところがなくなると栃木、宮城県へと足をのばしてきました。今までに1千玉くらい運んだかな」


No.1294
2 売れぬ牛を飼う意味

 初夏の日差しが注ぐ中、32ヘクタールに及ぶ牧草地のあちこちで、牛たちがゆったりと草を食(は)む。
 福島県浪江町から南相馬市にまたがる、阿武隈高地の丘陵地帯。そこに「希望の牧場」はある。
 しかし、「希望」の名を掲げる牧場にたどり着くには、東京電力福島第一原発の事故で全町避難が続く浪江町側からは入れない。昼間だけ通れるようになった南相馬市小高区側の無人地帯から近づくしかない。
 原発からは北西へわずか14キロの地点。牧場は今なお、年間積算放射線量が20ミリシーベルトを超えるおそれのある「居住制限区域」なのだ。

 そんなことにはおかまいなしに、とにかく牛たちはよく食う。
 その数は300頭余り。ときに1玉数百キロもある牧草ロールが、1日あたり10玉は消費される。牧場に緑の草が生えていない冬場は、さらに補給が必要になる。
 エサの多くは、放射性物質を含むため廃棄予定の汚染牧草ロール。ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)らが、遠く宮城県栗原市の牧場から毎週のように運び込む。牧場主の吉沢正巳(61)が福島県相馬市の食品工場からもらってくるモヤシかすや野菜くずなども欠かせない。

 「経済価値のない、売れない牛を飼い続けるのはバカげた話かもしれない。意味がないかもしれない。意味がないことの意味を、考えながら続けることの意味が、わかるかっ」
 まだ春浅い3月半ば。牧場を見学に訪ねて来た東京の大学生ら十数人を前に、吉沢は挑発するように問いかけた。

 4年前の原発事故から2カ月後の2011年5月12日、原発から20キロ圏の警戒区域内にいる家畜について、国は「殺処分」への同意を各畜産農家に迫った。
 肉牛も乳牛も豚も、放射能に汚染されて移動もできず、市場価値もなくなり、飼育のために人も立ち入ることができなくなった以上、安楽死させるしかない――というのが国の論理だ。
 だが、自らを「べこ屋」と呼ぶ吉沢はそれに逆らい、共感した全国各地のボランティアたちが支援を続けてきた。
 べこ屋が家族同然にしている牛だ。「利用価値がなくなったから」と国に言われ、「はい、そうですか」と殺せるわけがない。その国は東電とともに原発を推進してきた加害者だ。吉沢同様、多くの畜産農家がそう考えていた。


No.1295
3 国と東電への抗議だ

 東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域内の家畜は「殺処分」せよ――。2011年5月、国から出された指示に、当然のことながら多くの畜産農家は反発した。
 福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)ら十数軒を除く300近い畜産農家がやがて、説得に応じ、泣く泣く牛を手放した。
 飼育のために立ち入ることもできない圏内でまだ生きていた約1700頭が、「安楽死」させられた。
 何人かは避難するにあたり、「同意拒否」を宣言していた吉沢らに牛を託していった。

 「俺はここで被曝(ひばく)した牛と生きていく。それが国と東電に対する猛烈な抗議なんだ。俺自身がエサをやりながら被曝してもね。こいつらは、原発被害の生き証人なんだから」
 今も絶えることのない牧場見学者に対して吉沢は、ときに怒りにまかせて演説をする。

 「国への抵抗や原発への怒りは分かります。でも、この闘いに展望はあるんでしょうか?」
 今年3月、神奈川県から来た大学生の一人は疑問を投げかけた。
 牧場にいる300頭余りのほとんどが黒毛和牛と聞き、こう指摘する学生もいた。
 「もともと食肉用に殺すはずだった牛を飼い続けることに、矛盾は感じませんか?」
 そんな疑問や矛盾を、吉沢は決して否定はしない。
 「その通り。矛盾そのものさ」「矛盾そのものをそのまま生きている」。そう返すのだが、自分自身でうまく説明できない。

 そんな牧場主を、ボランティアスタッフの針谷勉(40)が支える。原発事故直後に通信社の記者として現地に入り、取材の中で吉沢と出会った。考えに共鳴し、通信社を辞めて独立。フリージャーナリストになり、傍ら牧場を手伝いだす。
 この4年の間に、針谷にとっての吉沢は「牛飼いの師匠」から「生き様の師匠」へと変わっていた。
 「吉沢父さんの生き方は、3・11後の彼の体験やこれまでの人生を理解しないと、言葉だけでは分からないんだよね」

 4年前の3月11日、東日本大震災の大きな揺れが襲ったとき、吉沢は南相馬市内のホームセンターで買い物をしていた。
 尋常でない揺れが落ち着くや、牛のことが心配になり、乗ってきたトラックですぐに牧場へ引き返そうとした。


No.1296
4 内陸へ、まるで戦場

 2011年3月11日。

 東日本大震災が起きたとき、福島県南相馬市で牧場備品の買い物をしていた吉沢正巳(61)は、揺れがおさまるや、すぐに自家用トラックのハンドルを握った。
 牛のことが心配だ。早く自分の牧場に戻りたい。

 吉沢が代表を務める「希望の牧場」は震災前、もともと「吉沢牧場」を名乗っていた。
 正式には農業生産法人・有限会社エム牧場(本社・二本松市)の浪江農場。場長の吉沢がエム牧場所有の肉牛約330頭を預かり、肥育・繁殖する契約だった。
 姉の小峰静江(こみねしずえ)(63)とその長男の敦(あつし)(36)も敷地内の住居で一緒に暮らし、牛の世話を手伝っていた。

 携帯電話は通じず、牧場とは連絡がとれない。先を急いだ。
 浪江町の吉沢牧場までは15キロほど。ふだんなら20分ほどで帰れる。しかし、道路の寸断と避難車両の渋滞で1時間近くかかった。
 戻ると、停電で地下水をくみ上げられず、ディーゼル発電機を起動して牛舎に給水した。
 直後、カーナビのテレビが太平洋沿岸部の大津波を伝えた。

 翌12日の早朝。
 牧場の南側を東西に走る国道114号では、東の海岸部から西の内陸部へと避難する車の混雑が始まっていた。

 心配になった吉沢は、避難の車列の進路とは反対方向に車を走らせ、海岸部の浪江町請戸(うけど)地区の様子を見に行った。
 津波で182人が亡くなり、うち32人の行方が今も分からない町内で、最も多くの犠牲者を数えることになる地区だ。海岸の街並みはなくなり、がれきしか見えなかった。今思えば、あのがれきの下には、波に引きずりまわされて傷つき、助けを待っていた人もいたはずだ。それをふり切るかのように西へ、内陸部へと多くの人々が、群れのように急ぐ光景が重なった。

 「まるで戦場だ」
 自分に戦争体験はないが、70年前、旧満州の荒野で侵攻してきたソ連軍から逃げ回ったと話していた亡き父の姿が、脳裏をかすめた。
 だが、吉沢にとってはもっと恐ろしい事態が、南東14キロ先の東京電力福島第一原発で進行していた。
 原発がおかしい。そんなニュースが前日から、カーナビの画面に流れ始めていた。


No.1297
5 なぜ犠牲なんかに

 2011年3月12日の早朝。
 福島県浪江町の吉沢正巳(61)が沿岸部の請戸地区で津波による惨状を目の当たりにする前、県警災害警備本部の通信班員約10人がワゴン車3台を連ねて吉沢牧場にやって来た。
 「ヘリコプターからの原発サイトの空撮映像を受信し、本部に中継する通信基地として、牧場の一角を使わせてほしい」

 14キロ先の東京電力福島第一原発の様子がおかしい。それは知っていたので要請を快く受け入れた。
 ところが職員らは夕方になって、急きょ、パラボラアンテナを片付け始めた。吉沢によると、こう言い残して立ち去ったのだった。
 「撤収命令が出たので引き揚げます。あなたたちもここにはいない方がいい。政府は情報を隠している」

 それより前の午後3時36分。
 原発1号機建屋で水素爆発が起きた。吉沢には知るよしもない。

 約3時間後の午後6時25分。
 浪江町北西部の山間地・津島地区を除く原発20キロ圏内に、避難指示が出された。
 町長の馬場有(ばばたもつ)(66)は、国や県、東電からは一切何の連絡も町になかったことを、今も憤る。

 2日後の14日午前11時ごろ。
 避難指示が出ても牛の世話のために牧場に残った吉沢は、連発花火のような大きな爆音を立て続けに2回聞いた。不安は膨らんだが、すぐには何の情報もない。そのまま牛の給餌(きゅうじ)を続けた。
 3号機建屋の爆発だったことは、二本松市にいた提携先のエム牧場社長だった村田淳(むらたじゅん)(60)からの電話で知った。

 15日朝、4号機建屋も爆発。
 村田に勧められるまま、牧場内の住居から姉の小峰静江(63)や甥(おい)の敦(36)とともに、西へ35キロの二本松市にある村田宅へ一時避難した。だが、牛にエサをやるため、16日にはひとり牧場に戻った。

 17日朝、自衛隊ヘリが3号機めがけて袋詰めの海水を投下した。
 自宅2階から吉沢は、双眼鏡で観察していた。排気筒の高さを超えるほどの白い噴煙があがった。自衛隊員が危ないじゃないか。言いようのない怒りがわいた。
 牛の出荷についても「取引先から断られた」と、村田からすでに電話が入っている。
 俺たちや自衛隊員がなぜ、こんな無策の原発を進めてきたやつらの犠牲にならなきゃいかんのだ。
 納得できなくなった。


◇No.1298
6 牛はたぶん全滅する

 福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)は、震災前から筋金入りの反原発派だった。東北電力が地元に計画していた浪江・小高原発の建設では「カネによる地域の分断」も目の当たりにしてきた。
 牧場の14キロ南東にある東京電力福島第一原発では2011年3月12日、建屋の爆発が始まり、15日には自らが一時避難を強いられた。
 「東電本店に直接抗議に乗り込む」。そう決意するまでに時間はかからなかった。

 吉沢の牧場に牛約330頭を預ける提携先・エム牧場社長の村田淳(60)に電話で相談すると、村田もすぐに賛同してくれた。
 「牛の賠償を請求してくれ。牧場のスポークスマンとして」
 牧場内のトラックや作業車にわずかに残るガソリンをかき集め、拡声機を取り付けた軽ワゴン車に給油。17日夜、東京に向けて出発した。

 翌18日午前8時、東京・内幸町の東電本店。
 単身で入り口に現れた吉沢は厳戒警備中の警察官らに止められた。
 「福島県浪江町のベコ屋だ。放射能で俺は戻れなくなったし、牛は水もエサもなくて死んじまう」
 泣きながらの説明に、ついには私服警官が立ち会うことで応接室に通された。

 応対した東電社員に吉沢が訴えたのは二つのことだった。
 「牛はたぶん全滅する。必ず全て弁償しろ」
 「逃げるなよ。自衛隊が決死の思いで闘ってる。お前たちが自分でつくった原発を自分で制御できなくてどうする、ふざけるな。俺だったら原子炉に水をかけに、命をかけてホース持って飛び込んでいく」
 吉沢が泣きながらまくし立てると、応対の社員も目を赤くした。

 その後も車で寝泊まりしながら1週間ほど都内をまわり、街頭演説や官公庁への抗議を続けた。
 浪江町の牧場に帰ると、留守を預かる村田は牛舎から牛たちを解き放ち、自由にさせていた。
 「一部の牛は牧場外に逃げたかもしれないし、近所迷惑かもしれない。でも、牛舎内で餓死させるより、はるかにましだ」。それが村田の考えだった。
 実際、浪江町や南相馬市の牧場、畜産農家ではその後、多くの家畜が餓死していった。空腹で牛舎の柱にかじりついたまま目をむいた牛、骨と皮だけになった馬などの死骸を吉沢も嫌というほど見た。


No.1299
7 人の手で生かす道を

 2011年3月下旬。
 東京電力本店への抗議から福島県に戻った浪江町の牧場主・吉沢正巳(61)は、二本松市にある提携牧場の社長・村田淳(60)の家に再び身を寄せた。
 3日に1度、35キロ先の自分の牧場まで通い、牛にエサをやり続けた。牧草のほかに廃棄されるモヤシかすや野菜くず……。今はそれらを相馬市内の食品工場から直接もらい受けてくるが、当時は提携牧場から運び込み、冬場の牧草不足を補った。
 牧場は福島第一原発から北西14キロの地点。被曝(ひばく)は覚悟の上だった。

 原発事故の発生から1カ月余りになる4月22日、国は原発20キロ圏内を立ち入り禁止の警戒区域とし、バリケードや検問所を設けた。区域内に入ったり寝泊まりしたりする場合、たとえ自分の家でも国や市町村長の許可が必要になった。
 許可証は簡単には出ない。それでも、吉沢は牧場通いをやめるわけにはいかない。最初のうちは、バリケードをどけたり、牧場に通じる抜け道や獣道のような山道を利用したり……。検問の警察官に止められると、こう説得した。
 「牛が死んでしまう。エサをやらないと。自己責任で入る」

 しかし、次第に警備は厳しく、バリケードも堅固になっていった。
 5月12日には、区域内の家畜を殺処分にするよう国の指示が出た。

 そのころ、民主党の衆院議員だった高邑勉(たかむらつとむ)(41)は自主的に被災地に入り、家畜救出を求める農家の訴えに耳を傾けていた。その中で吉沢のことを知り、仲介に動き出す。
 「家畜の衛生管理」や「被曝牛の学術調査・研究」への協力名目で、許可証が出るよう尽力した。
 「牛を殺すな」。同じように共鳴したボランティアやジャーナリストらが全国から支援に駆け付けるようになり、彼らと協力しつつ高邑と吉沢は7月、「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトを立ち上げた。警戒区域内の家畜は「餓死か殺処分」の二者択一ではなく、「人の手で生かす」という第三の道を模索しよう。それが狙いだった。

 南相馬市や浪江町の役所窓口で、吉沢は「公益目的の一時立ち入り許可証」を得られるようになった。
 だが、役所の窓口では、吉沢が牧場内に「殺処分反対」「反原発」などの看板・幟(のぼり)などを設置し、国の政策を批判していることを問題視。許可用件の「目的外行為だ」として撤去を求めたりした。


No.1300
8 同意書「憲法違反だ」

 2011年3月の福島第一原発事故に伴い、原発20キロ圏内の「希望の牧場」は立ち入り禁止の警戒区域内に入った。それでも牧場代表の吉沢正巳(61)は牛の世話を続けた。そのために2週間ごと、地元・福島県浪江町の役場へ出向き、立ち入り許可証の更新を繰り返した。11月以降は、ある同意書の提出も求められた。吉沢は疑問や不満を抱きながらも、仕方なく応じ続けた。
 同意事項は、作業内容や結果をインターネットなどで公にする場合は必ず町の許可を得る▽マスコミなどの取材は一切同行させない……。書面の内容は、メディアに門戸を閉ざさない吉沢に同行取材するジャーナリストたちの間で、波紋を広げていった。

 明けて12年の5月初旬、東京。
 弁護士の日隅一雄(ひずみかずお)は、コメントを求める記者の取材を受け、事情を知ると怒りの言葉を口にした。「明白な憲法違反ですよ」
 産経新聞の記者を辞め、法曹の道に転じて14年余。原発事故が起きたあとは、東京電力や国の記者会見に欠かさず通いつめ、情報の隠蔽(いんぺい)を厳しくただし続けていた。取材応対もそこそこに、すぐ吉沢の携帯に電話を入れた。「国と町へ抗議の申し入れをし、記者会見で事態を公表したいのですが」

 その後の行動も早かった。
 東京弁護士会の報道と人権部会の元部会長・梓澤和幸(あずさわかずゆき)(72)を誘い、「弁護団」を結成。5月17日には国の原子力災害対策本部と現地対策本部(オフサイトセンター=OFC)や町に「表現の自由の侵害だ」と申し入れ、県庁で記者会見も開いた。主張はこのようなものだった。
 牧場作業の公表をめぐる事前許可の「強制」は、憲法で禁じる検閲にあたる。ジャーナリストの同行の「禁止」は取材を受ける権利、ひいては取材する権利を侵害し、報道の自由、市民の知る権利を侵す。

 町役場は許可証を出すにあたり、なぜ一連の条件をつけたのか。会見にいたる過程の中で、記者は町長の馬場有(66)から聞いていた。 「条件を町がつけた覚えもないし、つける必要もない。国は形式的に許可権限は町にあるというが、実態はすべてOFCが指示している」
 これに対しOFCの担当者は、かみ合わない釈明をした。 「警戒区域で牛を飼う行為が野生化する牛を増やし、周辺に迷惑をかける。町の担当者から相談を受け、同意条件を協議した」


No.1301
9 「余命半年」を超えて

 2012年5月17日、福島県庁。

 牛を飼い続けるのに必要な許可を得るため、不本意な同意書を出してきた浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は、東京の弁護士・日隅一雄ら「弁護団」と開いた記者会見の場にいた。
 福島第一原発事故後の11年4月以降、警戒区域内に入った牧場は自由に立ち入れなくなっていた。
 立ち入りが禁止され、例外的に許可を得て入った場合でも、区域内でのことを公表したり、マスコミに書かせたりしてはならない――同意書で国と町から課された「条件」は、要約すればそういうことだった。
 会見では表現・報道の自由や知る権利などを侵し、憲法違反にあたるなどと強く抗議。結果、「条件」はほどなく撤回に向かう。

 会見に臨んだとき、中心にいた日隅の体はぼろぼろの状態だった。意識がもうろうとして思考を妨げるからと鎮痛剤も使わず、全身に広がった痛みに耐え、マイクを握った。
 「末期の胆のうがんで余命半年」。そう医師に告知されてから、すでにほぼ1年。
 日隅はこの間、入院治療を拒んで20日間で退院後、自宅闘病を続けてきた。抗がん剤を打ち、漢方を含むあらゆる療法を試みつつ、東京電力や原子力安全・保安院の記者会見に延べ100回以上も通い続けた。
 政府の「低線量被曝(ひばく)についての間違った発表」、東電の「汚染水放出についての情報隠し」……。県庁での会見の前月には、福島大で開かれた「原発と人権」シンポジウムで、原発事故をめぐる問題点を指摘、元新聞記者の立場からマスメディアには特に厳しい批判の矛先を向けた。
 「知り得たことを報道せず、放射能汚染情報を住民避難に生かせなかった」

 県庁会見の6日前。東京・原宿のギャラリーで牧場の写真展を取材していた記者の携帯が鳴った。
 「あす体調がよければ写真展に行きたい。案内してもらえませんか」
 日隅からだった。写真展のことは取材を受けて聞いていた。
 「本来なら牧場に行き、どんな牛たちをどんな風に育てておられるか、現場の土と風にふれながらお話を聞くべきなのです。ですが……」
 県庁や福島大のある福島市までは新幹線で何とか往復できても、さらに浪江町までとなると山越えが難しい。すでにギリギリの体調だった。
 「せめて写真を通して感じとりたいんです」

 * 「希望の牧場」が当日の模様を伝えた記事がこちら。
 2012年05月18日「化かされた」


No.1302
10 最後まで願い、逝く

 約束の午前10時半きっかり、東京・JR原宿駅前。
 待ち合わせ場所に現れた弁護士・日隅一雄は、支援する福島県浪江町の「希望の牧場」の写真展が開かれているギャラリーまで、数百メートルの道のりを1時間近くかけて歩いた。
 何度も何度も路上の縁石に座り込み、休んでは歩き、歩いてはまた休み、会場へと向かった。

 2012年5月12日のこと。
 数日後には、福島県庁で記者会見を開く予定が控えていた。
 福島第一原発20キロ圏内の牧場への立ち入りをめぐり、牧場代表の吉沢正巳(61)に課せられた「表現の自由への制限」に対し、抗議するためだった。

 しかし、1年前から末期の胆のうがんで闘病を続ける身には、さらに遠い沿岸部の牧場まで、となると往復するのは厳しい。支援に取り組み始めながらも、念願の現地入りを果たす見通しは立たないままだった。 ならば、少しでも現場の様子を知るために、写真展に案内してほしい。そう切望し、取材で知り合った記者に付き添いを打診してきた。

 すでに体は口からの食事を受け付けない状態で、この朝も点滴を打ち、待ち合わせ場所にやって来た。
 「短い距離ですが、やっぱりタクシーに乗りませんか」
 道すがら、何度尋ねても、「いや、大丈夫」と首を振った。

 ギャラリーに着くと、電話だけのやり取りだった吉沢と初めて顔を合わせ、静かに笑ってあいさつした。場内を回り、吉沢の説明を聞きながら牛の写真一枚一枚に見入った。
 最小限の言葉を交わしつつ、記者会見や関係官庁への申し入れの打ち合わせも済ませた。
 面会も含めて1時間ほどでギャラリーを出ると、日隅はさすがにどっと疲れが出たように見えた。
 「タクシーをお願いします」
 そう言うのが精いっぱいだった。都内の自宅マンションまで送られると、居間に入るなり、そのまま倒れ込むようにソファに休んだ。

 1カ月後の6月12日早朝。日隅は激痛に耐えかね、救急車で都内の病院に入った。
 先輩弁護士の梓澤和幸(72)や海渡雄一(かいどゆういち)(59)、国と東京電力の責任を記者会見で一緒に追及したジャーナリストの木野龍逸(きのりゅういち)(49)らが続々集まってきた。そんな心許せる「同志」たちに囲まれながら、日隅はその夜、永眠した。49歳だった。

 浪江町の牧場で訃報(ふほう)を聞いた吉沢は自責の念に苦しんだ。
 



朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ 2 へ続く


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