朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ 2

 1~10はこちらに纏めました。
  ・朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ連載中



No.1303
11 「生き証人」役立てて

 福島第一原発の事故で20キロ圏内の立ち入り禁止区域に入った福島県浪江町の「希望の牧場」。そこで牛を飼い続ける人に寄り添い、人権の根本から規制の是非を問うことで、入域や取材への制約を取り除く。
 49歳で他界した東京の弁護士・日隅一雄にとって、それが最後の仕事になった。

 日隅を「しのぶ会」は、死去後1カ月余たった2012年7月22日、東京・丸の内の東京会館で開かれた。参院議員の福島瑞穂(59)ら約500人の会葬者の中には、浪江町からトラックで駆け付けた長靴姿の牧場代表・吉沢正巳(61)と、スタッフの針谷勉(40)の姿もあった。
 「牧場を支援する活動が、死期を早めたのではないか」
 吉沢も針谷も訃報(ふほう)を受けて以来、悔やんできた。

 しかし、日隅は死の直前、こう話していた。
 「いろんな活動をすることが生きがいになって、僕の免疫力は高まった。(末期がんで)宣告された余命半年を倍以上に延ばし、ここまで来られたんです」
 原発事故をめぐる問題の追及や牧場の支援と同じく、弁護士生命をかけて闘った「NHK慰安婦番組改変訴訟」の原告・西野瑠美子(にしのるみこ)(62)に、かすれた声で闘病中の思いを打ち明けていた。

 その日隅の言葉を伝え聞いた針谷は、「吉沢父さんと似ているな」とすぐに思った。
 原発から北西14キロにある牧場内で暮らす吉沢は、この高線量の区域で牛の世話を続けてきた。よく言う冗談めかした口癖がある。
 「俺の被曝(ひばく)量は半端じゃない。けど、俺は逆に放射能で活性化されて元気になっちゃったんだ」
 しかし、定期的に内部被曝検査を受診するなど、健康を気にしていることを、針谷は知っていた。

 その吉沢がもっと気にかけていたのが、牛たちの身体の変化だった。
 吉沢たちが経済価値のなくなった牛を300頭以上も飼い続ける一番の「大義」は、「原発被害の生き証人」ということだけにとどまらない。「放射能による家畜の生体への影響を長期的に記録し、今後のために役立ててほしい」。そう願う意義も大きかった。
 全国各地の大学からは「被曝牛を研究対象にしたい」と様々な申し出があった。「国に見捨てられた牛たちが役に立てる」と吉沢たちも積極的に協力してきた。


No.1304
12 牛に白斑「原因不明」

 放射性物質の散らばる牧場での外部被曝(ひばく)や、汚染されたエサによる内部被曝で、原発事故後の牛たちの健康状態はどうなっているのか。「被曝牛を研究対象にしたい」。福島第一原発から20キロ圏内にある福島県浪江町の「希望の牧場」には、全国各地の大学や研究機関から申し出が相次いだ。
 しかし、年月が経つにつれ、「研究費助成の削減のため」などの理由で多くの機関が「希望の牧場」での調査から手をひいていった。

 原発事故から1年半近く経とうとする2012年夏ごろ。
 牧場の黒毛和牛の一部に白い斑点が出ている――。牧場主の吉沢正巳(61)は異変に気づいた。部分的に体毛が白髪のようになり、毛をそってみると体表の皮膚まで白い。
 1年後の13年夏になると、白斑の出た牛は30頭以上になり、うち10頭は全身に広がっていた。「放射能の影響か」と強く疑った吉沢は、国に徹底解明を求めた。

 13年10月10日、農林水産省畜産部が調査に乗り出し、専門官らが牧場を訪れた。比較のため白斑牛と非白斑牛を5頭ずつ診察し、採取した体毛や血液を分析のため持ち帰った。
 14年1月6日付で牧場側に開示された「調査報告書」の結論は、白斑牛も非白斑牛も「重度の銅欠乏症」だった。
 銅は「生体内で重要な役割をもつ微量元素」で、「欠乏すると毛の色が薄くなる症状も見られることがある」と指摘。そのうえで、白斑牛と非白斑牛の双方に銅欠乏症がみられることから、それが白斑の原因かどうかは「特定できない」「不明」としていた。
 その後、調査に大きな進展はない。農水省の担当者はこう言った。「継続して県の家畜保健衛生所が現地調査をしている。放射線との関係については大学の研究機関がおやりになっているので……」

 報告書の結論に、牧場のボランティアスタッフの針谷勉(40)は「これでは一般的な健康診断と同じ」と反発した。
 「我々が求める放射線との因果関係の有無を本気で調べる気があるのなら、被曝線量の調査、皮膚の切片を採取しての生体組織の検査、筋肉のセシウム含有量の調査などが必要なはず」
 牧場の獣医師・伊東節郎(いとうせつろう)(66)も「『わからない』が結論だなんて。無責任もいいところ。わかるまで調べるべきだ」と怒った。


No.1305
13 牛を見せ物にするな

 福島県浪江町の「希望の牧場」で白い斑点のある牛が増え始めてから間もないころ、牧場の様子を紹介する写真展が同じ県内の二本松市で開かれた。

 2012年10月。
 事故が起きた福島第一原発周辺の家畜の状況が気になっていた獣医師・伊東節郎(66)は催しの会場を訪れ、牧場代表の吉沢正巳(61)らの活動を初めて知った。 「放射能に汚染された牛を300頭以上も飼い続けるなんて、この男はいったい何を考えているんだ」最初はいぶかしく思い、理解できなかった。

 その後何度か吉沢やスタッフに会う機会があり、話を聞くうちに、「人間の都合で牛を殺していいのか」という怒りは共有できた。牧場ではそのころ、自然交配で増えた牛も含め、エサや栄養の不足が原因と思われる病気で死ぬ牛が相次いでいた。「白斑症」も減る気配がない。
 吉沢らは、栄養管理や去勢を担当する牧場専属の獣医師を必要としていた。
 「原発被害の証人として生かすという考えには賛成だ。けれど、ここで牛を飼うと決めた以上、自分の主義主張の見せ物にするのではなく、きちんと健康管理をするべきだ」
 考えた末、伊東は専属の仕事を引き受けようと決断する。

 もともと伊東はブラジルの牧場で長く働いていた。転機は11年3月の原発事故だった。
 生まれ故郷の東京・渋谷の幼なじみから連絡があり、「日本は今、大変なことになっているぞ。帰って来いよ」と促された。
 その年の6月、すでに成人している娘3人の反対も押し切ってブラジルを後にし、実に33年ぶりに単身で帰国した。
 すぐに東北へ飛ぶと、宮城県石巻市の石巻専修大キャンパスに持参のテントを張った。全国から駆け付けた若者や自衛隊員と一緒に、津波で被災した民家の泥かきなどにボランティアで従事した。
 「泥かきだけじゃなく、本来の獣医師の資格を生かして復興の役に立ちたい」
 12年2月からは、福島県大玉村の県鳥獣保護センターに勤務した。
 写真展から7カ月後の13年5月、「希望の牧場」専属になると、吉沢の「良き批判者」となるべく、牛の飼い方では遠慮なく持論を展開し続けた。


No.1306
14 長期的な観察が必要

 「牛は見せ物じゃないぞ」
 2013年5月から福島県浪江町の「希望の牧場」専属獣医師になったブラジル帰りの伊東節郎(66)は、牧場代表の吉沢正巳(61)に持論を展開し続けた。「しっかり健康管理を。俺たちには責任がある」
 とはいえ、牧場内で見つかる白斑のある牛には首をかしげるばかり。「ブラジルでもたまに見かけたが、どれも先天的だった。ここでは後天的。同じ原因かどうか」

 白斑は別の牧場でも見つかった。
 福島第一原発から西へ6キロ。大熊町の「池田牧場」の牧場主・池田光秀(いけだみつひで)(54)が白い斑点に気づいたのは、同じ13年の春ごろだった。
 ただ事情は異なる。「11年3月の震災前にもたまに見かけた。だから1、2頭なら気にならなかった」
 しかし、今では51頭のうち25%にあたる13頭の牛に白い小さな斑点が目立ち、ほかの1頭は横腹に数十センチ大に及ぶ丸い白斑が出ている。

 今年5月17日、獣医師で岩手大農学部准教授の岡田啓司(おかだけいじ)(58)を中心とした「原発事故被災動物と環境研究会」のチームが池田牧場を訪れた。黒毛和牛4頭に麻酔をかけ、白斑部位の皮膚の小片を採取。急速冷凍した生体組織を岩手大獣医病理学研究室に運び、分析が続く。

 岡田らは震災の翌12年9月から、原発20キロ圏の旧警戒区域内で被曝(ひばく)牛の調査を続けている。
 研究会の顧問で獣医放射線学が専門の北里大名誉教授・伊藤伸彦(いとうのぶひこ)(67)は言う。「現時点で原因は分からない。複合要因として放射線の影響も捨てきれないし、微量元素の欠乏や感染が原因という説もある」
 同じく北里大教授の夏堀雅宏(なつほりまさひろ)(49)は、空間放射線量が池田牧場より高くても、広い牧野で自由に水の飲める川がある牧場では白斑の症状が出ていないことを指摘。「放射線の影響とは考えにくい」と話す。
 「飼い主が避難などで給餌(きゅうじ)・給水を十分にできなかった牧場に多発している。飢餓状態などの過酷ストレスが原因となり、後遺症としてこういう形で現れたのではないか」

 これまで牧場で死んだ牛の解剖結果や筋肉・臓器に蓄積した放射性セシウムの調査からは、顕著な放射線由来の病変は見つかっていない。だが、牛のような大型家畜の長期低線量被曝の影響データは、世界的にもほとんどない。そのため、こんな見解では一致している。
 「ここの牛は非常に貴重。長期的な観察と研究が必要だ」


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No.1307
15 最後まで同意しない

 東京電力福島第一原発から西へわずか6キロ地点の福島県大熊町内。白斑牛が見つかった「池田牧場」の牧場主・池田光秀(54)は、ここで長年、和牛繁殖業を営んでいた。
 国に逆らい、原発事故に伴う牛の殺処分指示への同意を拒んできた。当初は浪江町の「希望の牧場」からエサの支援も受け、代表の吉沢正巳(61)とはいわば「同志」的関係だったが、「俺はあんなに過激じゃないよ」と、冗談めかして笑う。広さ5ヘクタールの池田牧場では原発事故の前、和牛31頭を飼っていた。

 2011年3月12日早朝、原発が危ないということで、10キロ圏内に避難指示が出た。
 「最後のエサだよ、ごめんね。ごめんね」
 池田は泣きながら、一頭一頭に給餌(きゅうじ)していった。

 それからの池田一家は県内各地の避難先を転々とした。田村市、郡山市、裏磐梯(北塩原村)、喜多方市、いわき市……。9カ月後には広野町の借り上げ住宅に入った。その間、原発20キロ圏内の牧畜農家で牛が大量に餓死しているとのニュースを耳にし、うちも同じだろうと、あきらめかけていた。
 だが、6月に一時帰宅すると、牛たちは柵を破って牧場の周辺へと逃げ、全頭が「放れ牛」となっていた。家族同然に育ててきた牛たちだ。池田は「生きていてくれたんだ」と胸をなで下ろした。

 妻の美喜子(みきこ)(57)と一時帰宅するたびに牛舎にエサを置いていくと、牛たちは時々戻り、エサを食べ、牛舎をねぐらにした形跡があった。
 野生化した放れ牛が市街地を走り回り、空き家を荒らすというので、やがて大熊町は囲い込みを始めた。原発事故から1年余り過ぎた12年4月、池田も耳標で確認しながら探し出しては連れ帰り、電気柵を作って囲い込んだ。近くで畜産を営む美喜子の実家の20頭も連れてきた。

 殺処分に同意してしまい、「もう牛を見るのさえ嫌だ」と心が折れる仲間の姿をたくさん見てきた。
 逆に池田は宣言している。
 「最後まで同意しない。国は法的根拠がないから農家に責任を転嫁している。町内で応じないのは池田さんだけと迫った。ずるいやり方だ」
 「むだに殺すのではなく、少しでも人類のために役立ててほしい」
 牛は雑草を食べる。牧区を区切って放牧すれば農地の荒廃を防ぎ、除染にも役立ち、早期の営農再開も見込めると信じている。


No.1308
16 霞が関に牛を放て

 2014年6月19日。 
 福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は、「原発一揆声明」を発表した。
 牧場の被曝(ひばく)牛の一部に現れた白い細かな斑点(白斑)の原因について、農林水産省は「わからない」としつつ、放射能との因果関係を探る詳細な調査はせずに幕引きしようとしている――吉沢たちには、そうとしか思えなかった。
 声明は「原因がわかるまで徹底調査せよ」と求めていた。

 環境相の石原伸晃(いしはらのぶてる)(58)が汚染土などの中間貯蔵施設の建設をめぐって「最後は金目(かねめ)でしょ」と発言したり、人気漫画「美味(おい)しんぼ」で新聞記者が東京電力福島第一原発の取材後に鼻血を出したとの表現が非難を浴びたり……。原発事故をめぐる様々な問題が日々のメディアをにぎわせていたころだった。
 吉沢は声明で、石原発言を「まともな賠償をしたくないという国の本性が出た」と批判。「美味しんぼ」騒ぎについても「原発再稼働に障害となる表現や考え方の自由への縛りが始まっている」と指摘した。
 抗議として20日、東京・霞が関の官庁街に白斑牛を放ち、政府官僚や報道陣に見てもらおう――。それが吉沢のいう「原発一揆」だった。

 計画を知った吉沢の姉・小峰静江(63)は大反対し、「身体を張ってでも阻止する」と怒った。
 「逮捕されるに決まってるでしょう。あんたが逮捕されたら、いったい誰が牛の面倒見るんだい」
 ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)には、「牛を運ぶトラックをパンクさせる」と伝えた。牧場車両の管理をしていた木野村は「パンクさせられると修理代が高くついて牧場経費に響くから」と、空気の抜き方をメールで教えた。

 しかし、静江は結局、空気を抜くこともあきらめた。
 「弟はいったん決めたら引かないし、止めても無駄。あの子は小さいときから何をしでかすか分からん子だった」と嘆く。
 吉沢が4歳の頃、父親が牧場の水くみ場で包丁を研いでピカピカにしていた。じっと見ていた吉沢は、父親がその場を離れたすきに、自分の左手親指にグイッと当てた。「ギャア」という泣き声で、静江は血みどろになっている弟に気づき、あわてて父親を呼んだ。「切れるかどうか確かめたかった」と言ったらしいが、吉沢はあまりよく覚えていない。


No.1309
17 猛反対を受けたって

 深い傷痕が左手に残る。この傷で親指の付け根の関節部は引きつり、今も動かないままだ。福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)は幼少時、切れ味試しにと、自らの左手親指に包丁を当て、この傷を負った。
 姉の小峰静江(63)は、子どもの頃から変わらない弟の無鉄砲さを気にかけつつ、牧場運営では獣医師の伊東節郎(66)と同様、吉沢に厳しい批判の目を向けてきた。 メディアの取材が入るたび「カリスマみたいに書かないで。舞い上がるだけだから」と冷ややかに言う。

 2014年6月20日。
 姉の猛反対を押し切った吉沢は、原発事故後に白斑の症状が出た黒毛和牛1頭をトラックに乗せ、牧場のある福島県から東京・霞が関の農林水産省前に乗り込んだ。
 「牛は見せ物じゃない」が持論の伊東は引き留めても無駄だとみるや、逆提案でトラックに同乗した。
 「どうしても行くというなら、俺も獣医だ。牛の健康を管理する責任がある。俺も連れて行け」

 そもそも国も福島県も福島第一原発の事故後間もなく、20キロ圏の警戒区域内の被曝(ひばく)牛は移動禁止と指示していた。吉沢が「一揆」の前日、それを予告する声明を出すと、県庁からは「思いとどまるように」と何度も電話がかかってきていた。

 農水省前で報道カメラマンのストロボが何度も光る中、牛を荷台から下ろそうとした吉沢は、阻止する警察官との間でもみ合いになった。結局、下ろすことは断念し、応対した担当者に牛の白斑調査やえさの確保を求める要請書を手渡した。
 環境省前では、環境相の石原伸晃(58)の「金目」発言に対する抗議の演説をした。

 そんな吉沢の怒りと行動力を支えているのは、父の遺産である牧場を「絶対に守る」との思いだ。
 父・正三(しょうぞう)は1980年5月、今の「希望の牧場」で、横転したトラクターの下敷きになり即死した。66歳だった。
 亡父が戦後、最初に開拓に入った千葉県四街道市で、静江は生まれ、吉沢らきょうだいと育った。市職員になったが、56歳で早期退職をし、浪江町の「吉沢牧場」の一角に住宅を建てた。原発事故さえなければ、老後はずっと、ここで晴耕雨読の生活が続くはずだった。
 原発事故後も避難先の四街道市から毎週のように牧場へ通い、吉沢の牛飼いを手伝ってきた。


No.1310
18 再び棄民にするのか

 福島県浪江町の「希望の牧場」代表の吉沢正巳(61)は千葉県四街道市で生まれた。
 亡父・正三は戦後、この地で牛1頭から酪農で再起を果たし、家族を養い、子どもを育て上げた。
 戦前、出身の新潟県小千谷地方から「満蒙開拓団」の一員として中国東北部(旧満州)に入植した。
 敗戦直前、守ってくれるはずの関東軍はソ連の参戦を察知するや入植者らを見捨ていち早く撤退。取り残された開拓民のうち、親と生き別れたり、死別したりした多くの子どもたちが、中国人に育てられ、のちに中国残留孤児と呼ばれた。
 正三自身は1945年8月、ソ連軍の捕虜となり、3年間のシベリア抑留・強制労働を経て、心身ともにボロボロになって帰国した。

 「国は俺たちを再び棄民にしようとしている」。原発事故後の福島を語る時、戦後生まれの吉沢は、正三が乗り移ったかのように見える。 「国は行け行けドンドンとあおり立て、足手まといになったら棄(す)ててきた。黙っていたら俺たちも、ここの牛たち同様に棄てられるんだ。棄民は日本の国策なんだから」
 原発の事故も、政府による家畜の殺処分指示も、吉沢の国への不信感を決定的にするのに十分すぎた。
 「満州棄民に、シベリア抑留者に、戦後の日本政府はいったい何をしてくれたというのか」

 吉沢は父の思いを代弁するが、正三自身は当時の苦労について、子どもたちには多くを語らなかった。生前、残留孤児のニュースが流れると妙に無口になるばかりだった。
 正三は旧満州での逃避行で、動けなくなった実母と娘2人、つまり吉沢の祖母と2人の姉を自ら手にかけていた――父の死後初めて、吉沢は母から聞き、衝撃を受けた。
 姉の小峰静江(63)は、母から手渡された手記「黒台開拓民の記録集」で当時のことを確認した。「荒野の自決」という章に、「棄民の真相」が実名で書かれていた。

 浪江町の牧場の土地32ヘクタールは45年前、乳牛50頭を飼うまでになった正三が「もっと広い土地で酪農を」と、四街道市の土地を売って家族で移住した希望の場所だった。
 東京農大に進んだ後、吉沢は学生運動にも明け暮れたが、父を手伝おうと浪江町に戻る。不慮の事故で父が亡くなると、牧場運営はやがて吉沢の双肩にかかった。
 「だから、この土地を絶対に手放すわけにはいかないんだ」


No.1311
19 でも、見捨てない

 福島県浪江町の「希望の牧場」は震災前、「吉沢牧場」と呼ばれていた。丘陵地に広がる32ヘクタールの土地は、吉沢正巳(61)が父の死や兄の経営失敗のあと、やはり酪農での再出発を考えていた場所だった。
 だが、和牛繁殖で事業拡大を図る二本松市の農業生産法人・エム牧場の社長だった村田淳(60)が、この広大な牧草地に目をつけた。1997年ごろ、「浪江に広い農場が空いている」と知人に紹介された村田は視察に訪れ、「決断するのに0・5秒」と言うほど気に入った。すぐさま提携を申し入れる。
 「打てば響く、という言葉がぴったりの頭の切れる男。割り切りも決断も速かった」初対面のとき、村田が抱いた印象通り、吉沢もほどなく提案を受け入れた。98年秋には、正式にエム牧場の浪江農場として肉牛の肥育・繁殖事業がスタートした。

 最初は20、30頭から始めた事業も十数年でようやく軌道に乗り、牛の頭数も300頭を超えるほどに事業が拡大したところで、2011年3月の東京電力福島第一原発事故に見舞われた。
 「まさに上り坂の途中だった」と村田は強調する。
 「繁殖のために放牧する母牛は100頭、肉牛にするのは450頭までをめざす構想を練っていた」

 原発建屋の爆発で牛の出荷が道を閉ざされた3月下旬、吉沢や牧場従業員らを二本松市のエム牧場本社に集め、村田は対策会議を開いた。
 「売れない牛をどうするか?」
 村田の問いかけに、十数人の従業員は沈黙するばかり。みんな、どうしていいか分からなかった。
 牧場経営もビジネス。生かせばエサ代も維持費もかさむだけ。でも、エサをやらなきゃ、牛は死ぬ。
 「見捨てたくない」
 「見捨てない」
 村田と吉沢の見解は一致した。
 二本松市の本社から35キロ先の浪江町の吉沢牧場へエサの支援を続けると、村田も決断。覚悟を決めた。

 「こうなったら、いかなる手を使ってでも避難指示の出た原発20キロ圏内に入り、エサをやり続ける」
 地元の浪江町は3月15日、すでに役場ごと全町が避難していた。4月には、吉沢牧場を含む20キロ圏内が立ち入り禁止になった。吉沢は浪江町だけでなく、牧場の一部が市域にかかる隣の南相馬市にも、エサやりのための立ち入り許可を求めた。


No.1312
20 まるで兵糧攻めだ

 福島県南相馬市。
 市長の桜井勝延(さくらいかつのぶ)(59)は元々酪農家だった。「希望の牧場」の吉沢正巳(61)は「何としても牛を飼い続けたいという俺の思いは、同じベコ屋として分かってくれた」と話す。

 東京電力福島第一原発で建屋が次々と爆発しても吉沢が牧場にとどまっていた頃、その桜井は市長として危機的な事態に向き合っていた。放射能が危険だから家の中で待機しなさい――。政府は、最初の爆発から3日後の2011年3月15日、市役所のある原町区が入る原発20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。が、「国、県から正式な情報がなかった」のは、隣の浪江町長・馬場有(66)が嘆いた状況と同じだった。

 翌16日午後1時すぎ、ニュース映像を配信するAPF通信社(東京)の代表・山路徹(やまじとおる)(53)のインタビューを市長室で受けた桜井は、募るいら立ちを明かした。
 「食糧も物資も圏内に入ってこない。政府はガソリンを送ったというが、タンクローリー車は圏外で運転手が置き去りに。コンビニでは売る物が、スーパーでは従業員がいなくなり、閉鎖。まるで兵糧攻めだ」 「率直な気持ちを」とマイクを向ける山路に、「心情を吐露すると感情的になる」と自制していた桜井の声が、怒りにふるえていく。
 「津波に奪われた家族を捜しに行けない。遺体があがっても遺族は火葬ができない。油がないし、従業員も逃げたので火葬場は昨日、閉鎖した。生き残った者にとって、生き残ったことが地獄なんだ」
 ビルマ(ミャンマー)、ボスニア、ソマリア……。世界の紛争地で取材経験のある山路も次の質問に詰まった。撮影役は、のちに「希望の牧場」のボランティアスタッフとなる針谷勉(40)。カメラを持つ手の震えを抑えるのに苦労した。

 大手メディアは既に記者を引き揚げ、NHKは電話取材で市長の声を流した。「絶対に現地に入らねば」と、先に南相馬市内に入った針谷に山路が合流しての取材だった。しかし、日本の放送局からは「コンプライアンス(法令や社会規範の順守)で避難指示区域の映像は使えない」などと言われた。欧米のメディアが映像を買ってくれた。

 インターネットで情報は流れ、「日本政府は何をやってるんだ」との批判が国際的にも高まった。当時の民主党の災害対策本部から現地調査に入ったのが、衆院議員だった高邑勉(41)らだ。


続く


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