朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ 3

 ・朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ 1~10
 ・朝日新聞【プロメテウスの罠】希望の牧場シリーズ 11~20



No.1313
21 家畜はどうすんだ

 「何しに来たんだ!」
 2011年3月21日、福島県南相馬市の市長室。あいさつに訪れた民主党衆院議員1期目の高邑勉(41)は、市長の桜井勝延(59)から叱責(しっせき)された。東京電力福島第一原発の建屋が次々と爆発していた。が、南相馬市には、国や県からの避難指示情報がほとんど届いていなかった。食糧や燃料などの生活物資も滞り、「兵糧攻め」の孤立状態にあった。桜井はその窮状を内外のメディアに訴えていた。

 民主党幹部が「支援物資を送っているのに届いていないとは? 誰か南相馬市長を黙らせてこい」と言うのを聞き、党の対策本部に詰めていた高邑が自ら手をあげた。しかし、到着した現地では、状況はまさに桜井が訴えていた通りだった。ほとんどの救援物資は、政府が設定した屋内退避指示の30キロ圏の外側で止まっていた。

 「政府に実態が伝わっていません。何かお手伝いできませんか?」
 高邑の言葉を聞くなり、桜井は「じゃあ泊まり込んで」と常駐を求めた。桜井の気迫に押された高邑は、地元の民主党関係者が借りていた事務所に泊まり込んだ。国会と南相馬市、そして各地の被災現場を行き来する生活が始まった。

 当時の市役所には、行方不明の家族や原発事故の情報を求める人々、支援物資の不足を訴える人たちが次々と来て、殺気だっていた。不安や不満をぶちまける人もいた。
 特に4月22日に原発20キロ圏内への立ち入りが禁止されてからは、「馬、豚、牛はどうすんだ」という畜産農家からの苦情が相次いでいた。
 「飼い主が家畜のエサやりなどで入域できるようにしてほしい」。高邑は、桜井から政府との調整役を頼まれた。

 東京のAPF通信社に勤めていた針谷勉(40)は、上司の山路徹(53)と市長インタビューを終えたあとも、同僚の木野村匡謙(43)らと南相馬市を拠点に避難区域内の取材を続けた。市内には、地元紙も含めたマスメディアの記者らがほとんどいなくなっていた。
 市役所で高邑と出会った針谷は5月中旬、原発20キロ圏内の取材規制の厳しさと、一方で記者が現場に行くことの重要性を訴えた。高邑は、すぐに状況を理解し、自分たちの調査活動の「記録係」として同行を認めてくれた。


No.1314
22 真実を、伝え切る

 2011年5月。
 APF通信社の針谷勉(40)は同僚の木野村匡謙(43)らと、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域内の取材を続けた。福島県南相馬市役所で知り合った衆院議員の高邑勉(41)に同行し、ときには高邑の議員事務所のスタッフとして、検問を通った。
 高邑は市長の桜井勝延(59)から、立ち入りが禁じられた警戒区域内の牧畜農家の要望を聞き、国との間で調整するよう要請されていた。しかし、政府からは12日、家畜の殺処分指示が出る。調整のため、初めは馬、次に豚、そして牛……と順番に対応を進めていこうとした矢先のことだった。

 こうした中で針谷と木野村は、自身の人生を大きく変える浪江町の牧場主・吉沢正巳(61)に出会う。
 吉沢牧場を訪ねた高邑が牧場の提携先の社長らから現状説明を受けている傍らで、吉沢は黙々と牛にエサをやっていた。いま、牧場見学者の前や東京の街頭で雄弁に演説をぶつ吉沢と同じ人物とは、とうてい思えない印象の初対面だった。
 牧場へ通ううちに針谷と木野村は、吉沢の強烈な個性の虜(とりこ)になった。330頭の被曝(ひばく)牛をそのまま生かし続けるという「希望の牧場」プロジェクトに巻き込まれていく。

 2人の部下とは別に、APF通信社の代表・山路徹(53)は警戒区域内で取材と並行して、取り残されたペットの救出に取り組んでいた。世界各地の戦争・紛争取材の中で、山路は「危険地帯に自己責任で入ることが許されない組織ジャーナリズム」に疑問を感じ、勤め先のテレビ局を退社。独立後の1992年、紛争地専門のニュースを扱う今の通信社を立ち上げた。
 「震災・原発報道も戦争報道と変わらない」が持論だ。原発の爆発直後、針谷らが「20キロ圏内に入っていいか」と尋ねたときも、「『希望の牧場』を支援するスタッフになりたい」と伝えたときも、「自分で判断するように」とだけ答えた。

 中立性を失うほど取材対象にのめり込む。コンプライアンス(法令や社会規範の順守)に反する。どれもマスメディアの取材活動としては、ご法度だ。組織が禁じる理屈もわかる。けれどそれでは、そこに暮らす人々の思いも真実も伝え切れない。
 それが山路の報道哲学だ。「行きたい、伝えたいという者を止めたなら、この小さな会社をつくった基本原則が崩れ去る」


No.1315
23 命を見捨てられない

 東京電力福島第一原発の事故を機に、被災現地の取材に入った2人のジャーナリストは矩(のり)を超え、福島県浪江町の「希望の牧場」を支援し始めた。
 牧場主の吉沢正巳(61)にほれ込み、牧場のボランティアスタッフになった針谷勉(40)と木野村匡謙(43)。2人の「部下」を、APF通信社の代表・山路徹(53)はこう評する。
 「2人とも頑固だからね。自分の中に確固とした正義をもち、それに従って行動している」

 2011年7月、吉沢の思いを実現するため「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトが始動すると、針谷は「山路さんに迷惑がかかるから」とAPFの専属を辞めた。今は東京都内に独立した事務所をもち、そこに「希望の牧場」東京事務局も置く。
 木野村はAPF東海支局長の仕事も続ける傍ら、岐阜県内から浪江町まで700キロを毎週のように車で通い続ける。牧場業務のために大型特殊免許まで取った。
 2人の支えもあり、吉沢牧場が前身の「希望の牧場」は12年4月、非営利一般社団法人として新たな一歩を踏み出していく。提携先のエム牧場からも自立しようとしていた。

 吉沢は目の前にいる牛を、どうしても殺せなかった。取材を踏まえて山路は吉沢を「今の時代に絶滅危惧種みたいな人だ」と言う。そんな山路も、人のいなくなった警戒区域の原発20キロ圏内を報じる中で、目の前の犬や猫の命を見捨てることができなかった。仲間とともに「犬猫救出プロジェクト」に取り組み、約60匹を救い出している。

 「どんな場合でも命というものが最優先にされなくてはならない」
 山路がテレビ局で働く報道マンだった頃から、戦争取材の中で学んできた原則であり、信念でもある。
 伝えることよりも、中立であることよりも、命を選ばねばならないときがある。過酷な条件下であればあるほど……。それは「原発推進は人の命より経済を優先させることだ」という吉沢の持論にもつながる。

 山路のように警戒区域内のペットレスキューを取材する中で、直木賞作家の森絵都(もりえと)(47)もまた、「希望の牧場」と出会い、心を揺さぶられ、突き動かされた一人だ。吉沢が発するたくさんの言葉たち。その「言葉の海」から、命の本質を突く「核心」を切り出し、絵本に結晶させられないか。


No.1316
24 「絵本にできる」確信

 絵本「希望の牧場」を作るため、作家・森絵都(47)は福島県浪江町に牧場代表の吉沢正巳(61)を訪ねた。2013年の晩秋だった。
 東京電力福島第一原発の事故から間もない11年春ごろから、20キロ圏内のペットレスキューに関わるボランティアたちの間で、吉沢は「知られた存在」だった。
 森は犬・猫の救出活動のノンフィクションを執筆しつつ、牛舎につながれたまま餓死していく牛たちのニュースや吉沢の名に接するたびに、「この犠牲を何としても伝えたい」と気にかけていた。

 所属する日本ペンクラブ主催の「脱原発を考える集い」が13年6月、東京の専修大学で開かれた。報告者として招かれた吉沢と初めて顔を合わせ、じかに話を聞き、悲壮感がないことに驚いた。それまでは「牛の話は悲しすぎる」と思い、絵本にして「お涙ちょうだい」の話になるのは嫌だった。
 牛飼いが牛を飼う――あたり前のことを妨害するあらゆる力に対し、ひるまず挑んでいく「強さ」を吉沢に感じ、「ノンフィクションの絵本にできる」と確信した。

 構想を練り、取材日程を調整し、編集者を通して絵を担当する画家を決めるのに5カ月かかった。この絵本の完成のためには、画家とともに現地を取材し、経験を共有することが必須だ。森はそう考えていた。
選んだのは、大阪市在住でイラストレーターとしても名を上げていた吉田尚令(よしだひさのり)(43)。
 岩崎書店(東京)の編集者を介した依頼の電話に、森作品の愛読者でもあった吉田は「意義ある仕事」としながらも、現地取材という条件には、「数日待ってほしい」と返事を留保した。
 福島の原発事故後、関西電力本店前の脱原発デモにも参加していたが、原発20キロ圏内の「希望の牧場」に入ることにはためらいがあった。

 「あなたも子どもの父親でしょ」
 電話を終えた傍らで妻が言った。3歳になったばかりの双子の男の子がいた。一方で妻は「どんなに反対しても行くんでしょ」と吉田の性格を見抜いてもいた。
 「放射線量があまりにも高い所には行かないから」……。
 話し合い、妻を納得させ、吉田は東京都内の集合場所に向かった。
 11月20日。初めて組む作家と画家は編集者と新幹線で福島へ。駅前からはレンタカーで阿武隈高地を越え、浜通りに入った。


No.1317
25 絵に吐き出してやる

 東京の出版社・岩崎書店の編集者が運転するレンタカーは、住民が避難して「無人の街」と化した福島県南相馬市小高区を抜けた。東京電力福島第一原発から北西へ14キロの地点。浪江町の「希望の牧場」が近づく。
 作家の森絵都(もりえと)(47)と画家の吉田尚令(よしだひさのり)(43)が同乗していた。

 2013年11月20日。前の座席で女性2人が会話を続けている。後ろの座席で吉田は無言のまま緊張していた。立ち入り禁止だった旧警戒区域内に初めて入る。除染土を入れた黒い袋が道路沿いに山積みにされていた。戸惑いつつ、持参したマスクは「しなくてもいいか」などとひとり思い悩んだ。

 旧警戒区域内でペットレスキューを取材した森も、牧場に来るのは初めて。視界が開けると、丘陵地帯に300頭以上の牛がいた。 「人間がいない所にこんなに牛がいるなんて」その数や体格の大きさに「迫り来る生命力」を感じた。犬・猫の救出活動に同行したときは、飼い主を失って「薄らぎ、失われていく命」ばかりを見た。違いは大きかった。

 牧場に着くと、吉沢がよどみなく、機関銃のように話し出した。次々と繰り出される言葉の豊富さに吉田は圧倒され、用意した質問がなかなかできなかった。吉沢の「言葉の海」の中のどこに本質があるのか、森は必死に探り出そうとした。この人は闘うだけの人間ではない。やがて、そう感じ取り、心をうたれた。
 殺処分に泣く泣く同意した同業者からは「何でお前だけが生かしてるんだ」と非難されてきたが、吉沢は彼らのことを決して悪くは言わなかった。同じ牛飼いとしてのつらい思いも痛いほどわかっていた。
 森は、そんな吉沢の心中の言葉も絵本に紡ごうと思った。1泊して翌朝、牛のエサやりを手伝った。

 吉田は早朝、森らと別れて列車とバスを乗り継ぎ仙台へ。津波の被災地を抜けて市街に入ると、全く異なる都会の光景が目に入った。新幹線で地元・大阪の街に近づくにつれ、感情が抑えられなくなった。
 突然、涙があふれ出す。夕暮れの車窓に泣きぬれた自分の顔が映る。牧場では感傷に流されないよう努めて冷静を装っていたが、腹立たしさがこみ上げてきた。
 「何で吉沢さんが、こんな目にあわされるのか。見てきたものをすべて絵に吐き出してやる」


No.1318
26 覚悟も弱音も残そう

 《もりもり食って、クソたれろ……おまえら、牛なんだから。オレは牛飼いだから、エサをやる。きめたんだ。おまえらとここにいる。意味があっても、なくてもな》

 画家の吉田尚令(43)は2013年暮れ、作家の森絵都(47)から「希望の牧場」を絵本にするための原稿を受け取った。
 目を通すうち、身震いが止まらなくなった。それまで10冊近く、有名作家の作品を絵本にしたが、こんな経験は初めてだった。
 牧場主の吉沢正巳(61)が吐き出した一言一句の数々は、「言葉の海」のごとく際限ない。その中から、人の胸につきささる「鋭利な言葉」だけが、そこに残っていた。

 「隣で一緒に聞いていたから、言葉を削(そ)いで削いで何を残したかが、このとき初めて見てとれた」
 ひと月ほど前、福島県浪江町の牧場を取材した日の夜。森と吉田と編集者の3人は、南相馬市内の食堂で絵本の構想を話し合った。
 吉沢を英雄扱いしない。説教臭い道徳的な物語にはしない。20~30年後、たとえ牧場がなくなっていても、こんな人物がいて、こんな牧場があったことを後世に残せる本にしよう――。
 夜は更け、3人は店にあった最後のワインボトルも空けていた。

 森は、威勢のいい吉沢の街頭演説には、さほど興味がなかった。吉沢が牛飼いの日常の中で呻吟(しんぎん)する一言一言に出会いたかった。牧場で語られた言葉を録音して持ち帰ると、「吉沢語録」を書き起こし、そこから何を残すかの作業に集中した。
 《けど、弱った牛が死ぬたびに、ここには絶望しかないような気もする。希望なんてあるのかな。意味はあるのかな。まだ考えてる》こんな弱音や迷いの言葉を、吉沢は街頭では口にしない。森は、そんな牛飼いの「痛み」と向き合うために250キロ先の牧場に行った。

 年が明けて吉田は、ほかの仕事を断り、この絵本作りに没頭した。しかし、吉沢が国の指示を拒み、牛と生きる道を選ぶ場面で絵筆が止まった。吉沢の覚悟を考えれば考えるほど、先に進めなくなった。
 何枚も何枚もコンテを描いた末にようやく、「吉沢が牛を抱く絵」はできた。描き上げてみると、吉沢の方が牛に抱かれ、支えられ、助けられているようにも見えた。

 そのころ、街頭から吉沢の「言葉の海」に飛び込もうとしていた意外な人がいた。


No.1319
27 群衆の中にいた文太

 「菅原です。ブログを見ました。応援に駆けつけたいのですが」
 2014年5月9日朝、「希望の牧場」ボランティアスタッフの針谷勉(40)の携帯電話に品のいい女性の声が響いた。留守にした東京事務所の代表番号からの転送だった。
 針谷は、全国各地に散らばる400人近い牧場サポーターの1人かな、と思って聞いていた。

 東京・渋谷のハチ公前で毎月恒例の牧場代表・吉沢正巳(61)の街頭演説がある日だった。女性は詳しい場所や時間を尋ね、続けた。 「実は俳優の菅原文太(すがわらぶんた)の妻なのですが、吉沢さんは終わったらすぐに帰られるんでしょうか? 文太と一緒に少しお話しさせていただくお時間はありますか? お食事でもしながら……」
 針谷は驚いた。文太の妻・文子(ふみこ)(73)からだった。吉沢の都合を聞くまでもなく、快諾した。本業のジャーナリストとしての仕事があった針谷はすぐに、もう一人のボランティアスタッフ木野村匡謙(43)に吉沢への同行を依頼した。吉沢一人では心配だった。

 「この渋谷の明かり、東京の電気はどこから来ているんですか? 福島が何十年も送り続けてきた電気ですよ」。よどみなく流れる、挑発するような、いつもの吉沢節が続く。「そして今、原発が爆発し、我々は蹴飛ばされ、棄(す)てられた。福島の差別と犠牲の上に皆さんの、便利で楽しい暮らしがあるんですよっ」
 ハチ公前の群衆の中に、菅原文太はいた。帽子を目深にかぶり、腕を組み、じっと聴き入っていた。傍らには文子が寄り添っていた。その夕方、一緒に上京した専属獣医師の伊東節郎(66)や合流した木野村とともに、吉沢は菅原夫妻から永田町の「鰻(うなぎ)屋」に招かれた。

 文子は「鰻屋」と言うが、鰻素材の豪華な懐石料理の店だった。
 福島県浪江町の牧場には全国の支援者から米や野菜が送られてくる。が、独身の吉沢は料理などしない。即席ラーメンやコンビニ弁当で済ますことも多い。千葉県から支援に通う姉の小峰静江(63)がたまに、料理をしてくれるぐらいだ。
 「見たこともない料理ばかり。こんな店、俺の生涯ではもう二度と来ることはないだろう」。そう思いつつ、吉沢は箸を取った。
 吉沢たちが驚いたのは料理だけではなかった。会席には元大物国会議員も同席し、さらに意外な話が切り出された。


No.1320
28 料亭の夜、とんぼ返り

 2014年5月9日夜、東京・永田町の懐石料亭。
 福島県浪江町の「希望の牧場」代表・吉沢正巳(61)、専属の獣医師・伊東節郎(66)、ボランティアスタッフの木野村匡謙(43)は、古民家のようなたたずまいの茶屋の2階に通された。

 招いたのは、俳優の菅原文太と妻の文子(73)。もう1人、元自民党参院議員会長の村上正邦(むらかみまさくに)(82)も同席していた。3人はその日、東京・渋谷の街頭で吉沢が熱弁をふるう毎月恒例の演説をお忍びで聴いていた。
 村上はかつて宗教団体「生長の家」などの支援で当選してきた「参院の首領(ドン)」だった。政界汚職に絡んで失脚し、獄中体験も経て、福島の原発事故後は「脱原発派」に転身。一つ歳下の文太の盟友となっていた。
 「脱原発のためには党派を超えて連帯しなければ……」が持論の吉沢も、同席に異存のあろうはずがなく、杯を交わした。

 「きょうの吉沢さんの演説、俺にはとてもまねできない。まだ日本にはこんな人がいたんだ、と思った。それを支える木野村さんのような若者がいる限り、この日本もまだまだ捨てたもんじゃない」 文太が称賛し、村上がうなずく。しかし、そのあとに出た話は、同じ年の秋に予定されていた福島県知事選出馬への打診だった。 「やってみないかい? 脱原発候補はあんたしかいない」
 文太は熱心だったが、吉沢はいきなりで戸惑った。木野村は一瞬、思った。おもしろいじゃないか。でも、300頭以上の牛の世話は誰が?……。冷静に考えると、やはり実現の可能性は限りなくゼロに近かった。

 宴席は夜9時すぎまで続き、文太らは上機嫌でタクシーを呼んだ。吉沢らが店の前で見送るとき、文太は窓を開け、心配げに言った。 「あんたたち今夜、どこに泊まるの? 泊まるところあるの? 宿、取ってあげようか?」
 木野村が答えた。 「いえ、今夜は飲んでいない僕の運転で浪江の牧場に帰ります。朝の牛のエサやりがありますから」
 文太は驚き、申し訳なさそうに返した。 「そうか、気をつけてな……」 やさしい人だなあ。そう感じた木野村も、まさか半年後の11月末に文太(享年81)の訃報(ふほう)を聞こうとは思ってもみなかった。


続く

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